日記045

たった一カ月で少し前まで真夏だった事が思い出せない程に涼しくなった。長かった物件も一段落ついた事で、いつもの通りの閉塞感と憂鬱さを感じる、そして、ふと思い付いた事ではないが、まずは引越しをして、退職をするということを決めた。そうしたいというより、そうせねばならないという感覚である。人を憎むのはやめた方がいい、自分の生は自分で引き受けるべきだろう、強い思考は好きじゃないけど、そうも言ってられない。今くらい憂鬱であれば、少しのきっかけで吹き飛ばせる事を知ってるから大丈夫。おれは5年前より弱くもなったし強くもなった。

粟津邸の話を少し

読売ランド前のという何とも軽薄な名前の駅から、訳の分からない道を歩くと訳の分からない建物を見つけた、粟津邸である。外観は田舎の給食センターの様である。街で少し変わった建物を見ると、やってんねぇ!っと叫ぶようにしているが、事前にこれが粟津邸であることを知らなかったら、やってんねぇ!と叫べなかったかもしれない。もちろん、玄関側まで登れば間違いなく叫ぶことができたであろうけど。と言っても、実際の順序としては、玄関側を先に見て、その後に給食センター側に降りて行ったので、叫ぶことは可能であった訳だが、玄関周辺には人が居たので遠慮したのだ。

まず、驚いたのは玄関あたりに、インドのアーメダバードで見かけた人が居たことだった。一方的に知ってるだけなので、向こうは分からんだろうけど。中に入ると、手直ししたであろう箇所がたくさん目に入る、この建築を守り続けた住民の戦いが見えてくる。資料を見ると給食センターに見えてしまう外壁も、その戦いの結果であった。難しい話が色々あるのは何か知ってるけど、そんな事よりも重要だと思ったことは、粟津邸の道路を挟んで向かい側の木造アパートの解体である。解体業者はおそらくトルコ人で、裸足で作業している人もいた、鋭い眼光で時々こちらを見ている。なんという対称性!建築も守る戦いをしてきた粟津邸とすぐ隣で、建築を破壊する戦いをしている。全てことはこの対称性の前では、取るに足りなかった。

日記044

SDレビューとギャラ間に行った後に限界ばあちゃんに会ったはなし。

SDレビューについて

意味不明なドローイングを描いていた人と細長いイケメンビルを建ててた人以外は、自然系、素材系、ボトムアップ系、よって政治的に正しい系であった。地域に密着することは素晴らしいけど、それを展示されるとなんだかモヤモヤする。もっと政治的に正しくないものを見たいと思う。ポイ捨てを注意する動画を見せられてる感じであった。

ギャラ間について

思弁的で示唆に富んだ展示だったはずであるが、すこし眠くて集中してなかったかもしれない。模型の作り方、見せ方、構成、キャプション等々、美しかったように思う。きちんと見ないとな。

限界ばあちゃんについて

まじで限界だった、大丈夫かな?あの手の感触をいまだに覚えているんだが。

日記043

自分が発した言葉に驚く様な時は内容がどうであれ、思考がドライブしている時である。自分の言葉によって、ユリイカ!!と叫びたくなる。ほとんどの場合は自分に馴染みすぎた言葉が出てきてしまうが、それは単につまらない時、だるい、全然ダメ、訓練が足りていない。

前述を踏まえて21美ついて、ドライブしてみる。アクセル全開、目的地不明。

伊東豊雄とか、sanaaとか、妹島とか、建物が白いとか、柱が細いとか、丸いとか四角いとか、そういう事から遠く離れた地点からこの物体をスコープで覗くのだ。丸いからスコープの射程を調整すれば、丁度画角にすっぽり収まるかもしれない。サプレッサー付きのスナイパーライフルでピュン!と撃ち抜けば、屋上と呼ぶには少し抽象的なお皿から突き出した豆腐を撃ち抜けるだろう。豆腐だからダメージは少ないだろけど。下から持ち上げるタイプのエレベーターは物理的に非合理的すぎてオモロー。自分がどこにいるか分からないから、いつまでも建築が続く感じがする。。ダメだ、ドライブできない、路面が悪すぎる。今

 

 

日記042

過去→現在→未来というイメージはとても分かりやすいが、大切な想像力の何割かはこのイメージによって封印されている。

混沌を極めた物件の中にこれから入って行かねばならないので少し憂鬱である。

不安というか、焦り、このままでいいのか?よくないだろう、という漠然としたものがある。

ブルーハーツが打ち上げた花火は、今だに消えていない。

本当に小さな事を変えただけで、この世界の有り様を一変させる事もある。

日記041

少し前までオレを追い詰めていた物件は、まだ残っている事はあるが一時期のような状態からは解放された。本当に不幸な物件だと思うし、これから先とても大きな問題がこの物件で起きるのでないかと思っている。でも取り敢えず区切りがついた気がする。いま私に迫っているものは、いくつかの寺院物件である。迫っているという感覚よりも、本当にこれが地面から立ち上がる日が来るのか?という漠然とした不安がある。正直、到底そのような未来があると思えないのである。

仕事は前向きにやった方がいいと思っている。6年程度この業界にいたオレの思考の最高到達点がこれである。アホみたいな話しだが、これは結構重要であり、そしてとても難しいことなのだ。私の所属する集団はとても脆く、頼りなく、ハリボテで、空虚である。そのような環境の中でこの気持ちを持つことはとても難しいし、この環境抜きにしても、この業界でその眼差しを持ち続けること自体かなりむずいはずである。だが、同時にこれまで出会った数人の素晴らしき人達は、みな例外なく前向きなのだ。私はそれらに感化されることも多かった。というより、私自体には何の力も無いわけなので、全てのエネルギーは私の外側からやってきている。この身体でさえ、私のソトである。オレはただ川の中に浮かべられたトマトみたいにキンキンに冷やされているだけなんだよな。大体のことはどうでもオッケーである。こんな適当に、支離滅裂に、誤字脱字だらけで、何の話かも分からん事を書いて、、これをみたオレ、この時の事を思い出せるか?オレからの手紙だ

 

 

 

 

ただ、前だけ見ていると足元に躓く事もあるけど、

日記040

ある担当物件でのストレスによって身体が泥のようになっている。はじめての事ではないし、過去にはこれ以上の事もあったので、しばらく経てば良くなると思うが、原因となった物件で起きている事は、この仕事をやる上での基本的な認識を考えさせられる事であった。難しい話ではなく、単に、報酬を得て仕事をする限り、何かを今よりも良くしなければならず、それを可能にする為には人間関係が大切。ということであり、この仕事というより、基本的に全ての仕事と言われるものに共通するはずの事である。そのベースとなる、あるいは最低限となるラインを今回は下回ったような気がする訳だ。それは、何をつくるか?どのようにつくるか?よりもっと手前の段階の事であり、普段は気付かない内に達成しているような事でもある。この部分が無ければ、その先で如何なる事をしても虚しい結末を迎える。一言で言えばお互いを信頼して尊重しているかという事が大事である、というクソみたいに当たり前のことである。クソみたいに当たり前だけど、我々の事務所の社長は、本心なのか分からないが、人を信頼する、尊重する、という事が苦手な人なのだ。本心なのか分からないというのは、何かを、誰かを、敵対者する事によって生み出される何かもあるので、彼がそれを信じている、あるいは陥っている可能性もあるからである。もちろん、何かの物体や事象を仮想敵とする事は何の問題もないが、人を、とりわけ近くにいる人を仮想敵とするのはやめた方がいいと思う。

私は今回のことを自己批判の機会とする。

日記039

久しぶりに思い出したから開いてみた。新宿に向かう電車の中、イヤホンからはデイディビジョンの音楽、アメリカ、アメリカ!って感じがする。電車に人は少ない。

見えないように、考えないようにしている事そのものを忘れて頭の中は生温いゼリーのようだ。昼にCoCo壱食べたからまだまだお腹は減らなそうなので、歌舞伎町で天一食べるのはやめようと思う。私は私の身体が食べたいものを食べることができる。