日記051

設計とは何か?前提条件をきちんと整理した先に自動的に導き出されるものだろうか?導き出されたものがダメであれば遡及的に前提条件を意図的に操作することも必要だろうか?否、そもそも設計の前提条件をきちんと整理することなど原理的にできないのではないか?より正確には、絶対条件となるような項目から、できればそうしたいというような項目までがグラデーション的に机上に乗っていて、そこからどの具材(前提条件)で料理をするかを意図的に決めることしかできないのではないか。そしてその選別(レシピ)こそが設計で、施工者にレシピを渡して作ってもらう。この比喩だと自分で作ったらいいのに、、という事になるが、(そして本当にそうだとも思うが)レシピを渡すだけだからこそ面白いということもある。なぜなら、出来上がった料理を食べてそれをレシピに還元する時に、作り手が本当にレシピ通りのもの作ったか?ということが完全には分からなくなるので、還元行為が不完全なものになる。そして、そういったアベコベの中から誤配的に得も言われぬレシピができるかもしれないからである。多分そうじゃない。作り手がレシピを改変して、よりうまい料理を作ってくれるから可能性があるのでである。(それは自分で作っても同じか?いや、他者性が重要か)

ここまで適当に書いたが、ふと思い浮かぶ建築が到底このような話の中で進んだとは思えない。全く別の思考だろう。そもそも思考ではなく、「手」かもしれない。よく分からない。

例えば、完全に逆側から、つまり、最初に料理があって、それをレシピにして、具材まで還元するということもあるかもしれない。

多分この往復こそが設計というのが今のところギリギリ許せる結論である。

日記050

居心地の良さを追い求めている住宅系作家たちは、青木淳のことをどう思っているのか気になる。というか、どのように語るのか全く想像できない。「語るまでもない」というように一刀両断するのだろうか?きっとその刀を青木淳はおもちゃのチャンバラに変えてしまいそうだ。そして自分はどちらに興味があるのかと考えると、下半身は居心地の良さを求めていて、上半身は批評的なものを面白いと思っているので、冒頭の問いは、自分の下半身(身体)は上半身(頭)をどう思っているのか?ということと同じかもしれない。もちろん逆方向の問いもある。双方に対して雑なツッコミはすぐに思いつくがこれらを横断できる、言葉がうまく出てこない。この普通の問いに対して仮でもいいので、一定の言葉を探したいと思う。具象から抽象を考える作家と抽象から具象へ、あるいはそれ自体を瓦解する建築家か。そもそもこのような雑な二項対立で考えることをやめるか、多くの建築に触れてみた方がよさそうだ。

日記049

誰かが、建築は皆の和解の場にするべきだと言っていた気がする。はじめて、それが実として少しだけ体験できた気がする。本当に少しだけ、、というよりも和解の第一歩目かもしれないが、、

揉めことを解消したわけではない。そもそも揉めている訳ではないが、建築工事を取り巻く諸事情の中で、各関係者がバラバラの方向を見てしまうことはよく起こることである。事業主、設計側、施工側、みな立場が異なるので何の悪意もなく、むしろ善意であろうとも、小さな衝突は連続する。それらを設計によって、あるいは立ち上がった現実によって、皆が和解するのであれば、それほど素晴らしいことは無い。建築は衝突と和解の連続である。その先にしか美しき地平線は見えないかもしれない。

そう考えた時に、和解の第一歩を踏み出したように思えるこのプロジェクトの先に本当に地平線は見えるだろうか?今の自分には到底そうは思えないのである。その代わりに断崖絶壁が目に前にあるような気がしてならないし、自分の力でハンドルを切ってそれを回避する自信と動機づけがない。どうなることか

日記048

赤堤の家を片付けた、引越しはとりあえず終わって、これから新しい家を少しづつ住みやすくしたいと思う。最近は少し不安な気持ちと、なんだか落ち着かない、2人で住むわけだわから当然のことかもしれない。電気代がバカ高くなりそうで、ちょっと焦ってるけど、なんとかなりますよ、全部。自分だけの方法で世界とダンスする。不安な気持ちはきっと同じ、ありがとう、これからよろしくお願いします。

日記047

思考の順序がおかしい、強度がなく、柔軟さもなく、想像力もない、前提条件の整理こそが、ほとんど全てであるのに、それすらしていない、否、歪曲した前提条件の上で下手なダンスを踊る。見ていられない、机上の検討で世界を創造したように思いあがる。やはり、早く離れなくてはならないと思う。

 

例えば、アーリントン墓地のような墓と日本の墓の違いは何か、広大な芝地の中に企画化された墓標が整然と並ぶ風景。映画でよく見る軍人が数人並んで、空に向かって発砲するあの儀式、あれを受け入れることができる日本人はそう多くはないだろう。なぜ、墓とライフルが両立するのか?なぜ、発砲音と故人が両立するのか?まるで、この銃声によって殺されたのだ!とやっているみたいで不思議である。日本の墓にはライフルは無いし、発砲音もない。まぁ、よく分からんが、現代の日本の墓はずいぶんと時代にそぐわないものになっていると思う。知らんけど

 

 

 

如何にもアメリカ的だが、それの何がアメリカ的なのか、映

日記046

その人が居るだけで物事がうまく進みそうな空気を出せる人がいる。あるいは、うまくいかなくても何とかなりそうだと思える人。そしてその様な人は、一般的な意味での仕事ができる人ではないことが多く、それらの空気感は別の場所から出てくる。端的に人間力。人としての大きさ、強さ、全てを笑い飛ばす力。憧れる。多分、その人は何もしないけど、関わる人たちが、その人がいるおかげで、自分の力を最大限に出すことができるようになってしまうのだと思う。魔術的である。自分もそろそろ賢いとか、的確とか、早いとかではなく、そのような魔術の方へ行かねばならない。まずはホグワーツに入学するところから。