親と子 子供として考える I

卵子の数は有限である。精子の数も有限である。だか精子に関して言えば、なぜこれ程まで大量に生産されるのだろう。精子の数と卵子の数が対にならない理由はなぜだろう。もしも仮に対になったとしても、その組み合わせは膨大である。にもかかわらず、精子の数が膨大である以上、その組み合わせは、それこそ天文学的数字になっている。なぜ神は、こんなにもトリッキーなシステムを人間にセットしたのだろうか。

現在23歳、当然世の中にはこの年齢で親となる人もいるだろうが、僕は完全なる子供である。精神的にも、金銭的にも、圧倒的な子供である。親となる日は、想像の遥か外側にある。だかしかし圧倒的な子供などど言っていてはダメなのではないかと最近考えはじめた。どんな子供でもいつか親になる可能性がある、が、その準備は原理的に不可能だということについてだ。

子供から親へ、こんな飛躍は人生の中でも一度しか起こりえない。それだけの飛躍にも関わらず、そこには(とくに男は)生物学的に一切のグラデーションが無い。突然、妊娠し、突然、不気味な胎児が産まれる。時間とともに徐々に妊娠し、徐々に父親になるのではない。完全に突然。しかも偶然に、である。そしてその結果産まれる子供は、天文学的偶然性に晒されている。なんという呆気なさ、なんという暴力、なんという美しさ。そしてこのことについて回答した哲学者を僕は知らない。いたら教えて欲しい。おそらく、 生殖的な側面からならば、精子の量についての回答はできるのだろう。だが、重要なのはそこではない。考えるべきは、そのことに秘められた神からのメッセージの解読である。

これから何回かに分けてその解読を、回り道をしながらしたいと思う。