エイリアン

ニートをやめる為に、考えた23歳時点の哲学を記す。

社会に出るのは正直怖い。また抜け出せないような閉鎖感に襲われてしまうかもしれないからだ。それを回避するために色々考えた一年だっただろう。倒錯者として生きる。愛や正義をもって生きる。適用したふりをして生きる。なんでもよいが、もっともらしい考えを他にも色々知った。けれども僕はまだ家のベットに張り付いている。これをやめるには、もっと違う、強靭な思考が必要なのか。今はそう思わない。この方向には出口がないような気がする。それは社会にでたあとに、使えばいい、今はそれよりももっと手前の段階だ。半年前に、学生時代の友人が死んだ。学生時代にもクラスメイトが死んだ。二人とも自分で事故を起こして死んだ。多かれ少なかれ二人とも建築をやっていた。いや、それはどうでもいい。今、その友人に自分の今の状態を語れるだろうか。口籠ってしまい、下を向くだろう。学生時代の自分は、課題で常に一位を取り、熱く、自分の考えを語っていた。みなは、この人は建築をやっていく人で、成功するんだろうな、と思っていたと思う。それがこの状態になったのだから。下を向くしかない。自分は弱かった。何も知らなかった。堕落した人間だった。明らかに自分は失敗した。けれども、また前を向きたいと思う。死んだ友人に今の自分をきちんと喋れるようになならくてはいけない。過去の自分にもだ。親を除けば誰にも迷惑はかけなかった一年だった。だれとも関わってないから当然だ。けれども、ただ生きているだけで、責任があるはずだ。人に迷惑をかけ、人に悦びを与える責任があると思う。世界とぶつかり、ダンスしたいと思うようになった。こう書いても、それでもベットに張り付きたい自分がいる。でもそれはもう終わりにしたいと思う。どんなに待っても100%前向きな気持ちになることはない。待っていたら死んでしまう。最近、僕は周りから応援されているような気がする。高校時代の友人が度々訪れ、話を聞いてくれた。あとは、自分が踏み出すしかない。失敗したかはまだ分からないはずだ、これからそれを書き換えることができるはずだ、もう一度、建築をやってみようと思う。社会に出ようと思う。勉強しようと思う。苦しさと悦びに引き裂かれることが人間の性だと思うようになった。みんなありがとう。キリンジのエイリアンを聴きながら。