卒業設計を再考する

二年半ほど前に「忘却の森を可視化する」と題した卒業設計をしました。当時も思っていましたが、このプレゼンボード二枚ではあまりに淡泊なので、以下、補足を兼ねて、この課題に至る経緯や考えたこと、または今の自分から見てどう思うかなどを記していきます。

まず、当時在学していた専門学校での卒業設計の位置づけは、一般的な大学とは多少異なっていました。敷地条件、用途、規模などに直接的な制約はありませんでしたが、最終的な成果物として、設計した建物の平立断面図、矩計、展開図、面積表、仕上げ表などの図面と模型写真を提出することになっていました。また、始める段階で新規で設計をするか、前年度にやった課題をベースにし、図面に起こすかのどちらかを選択することもできました。専門学校なので当然かもしれませんが、作品よりも図面を書くことに重点が置かれており、プレゼンボードもつくりたい人はつくるということでした。このような条件下でしたが、待望した卒業設計だったのであまり気にせずに自由にやりたいという思いがありました。

はじめに敷地探しです。名前を聞いただけである程度コンテクストが共有できる場所にすべきだと思い、都内のめぼしい箇所を回りました。歌舞伎町、新宿西口、都庁前、渋谷、秋葉原、皇居。皇居は選択肢にはありませんでしたが、東京駅を見に行った際に、背後に広がる巨大な空間に気づき偶然足を運びました。東京駅の近くに皇居があることは知っていましたが、それを意識したことはなく、皇居よりもレンガ造りの駅舎と丸の内のビル群、東口のホワイトルーフというイメージでした。けれども、皇居を意識するとそれとは違った見方ができました。学校は都内でしたが、地方出身で当時は埼玉に住んでいた自分にとって、東京は丸い山手線を中央線が貫いている都市だという気持ちがありましたが、それとは別の見方に気が付いた瞬間でもありました。皇居前広場についたときは卒業設計のことを忘れ、ただその広大さと歪なパースペクティブに圧倒されました。その当時、磯崎新東京オリンピックの開会式は皇居前広場でやるべきだと言っていましたが、そんなことはできるはずがない、冗談だろうと思っていましたが、面積的には問題ないなと変に納得したことを覚えています。その後、皇居を一周し、堀の深さや、それを埋め尽くす大量のアオコ、対岸に斜めに生える巨大な木々、そして森。さらにそれらと対比されるように乱立する丸の内のビル群。東京の一角にこんな風景があることを知り、それに今まで気づかなかったことを不思議に思いました。同時に、多くの人々もしくは建築学生すらも、都市の中にこれほど豊かで可能性を秘めた森が眠っていることに気が付いていないように思え、最終的には内堀のなかのひとつである桜田堀を対象敷地としました。先ほど書いたような皇居の歪な風景がもっとも顕著に表れている場所だからです。

その後のリサーチで皇居は東京の一角ではなく、中心であることもすぐに分かりました。夜の航空写真を見るのが一番早いですが、東京の主要な道路は放射状か円形をしており、その中心に皇居があります。また、毛細血管の様に張り巡らされた鉄道網も皇居の下だけ、ぽっかり抜けています。その他歴史的文脈においても東京の中心が皇居であることは明らかでした。さらにそれがモニュメントや広場ではなく周囲と断絶された森であるというのが皇居の、東京の不思議なところだと思いました。けれどもこの辺りのことは東京や皇居について常々語られることなので、自分が何を考えたかを書きます。

まず、断絶された森というのはキーワードにありました。単に物理的にというだけなく、周囲の社会を動かしている理屈、普通に言えば資本主義かもしれませんが、そういったものから遠く離れているという印象がありました。無論、森もそうですが天皇もそういった存在だと思います。ですので、一つの問いはそのような存在なり、場所と周辺との関係、もしくは中心と周辺との間に広がる緩衝領域の在り方と言えるかもしれません。すぐに思いつくのは橋を架橋、もしくは堀を埋めるなどしてそれを解消することかと思いますが、それはあまり可能性がないと思いました。当時は、なんとなくそう思っていましたが、改めて今もう一度考えると、周囲との断絶があることこそが森、もしくは天皇がそれである所以だと思います。いや、それ以前に森が、天皇が、そこにある必要はあるのかと考えなくてはいけませんが、今考えてもうまく言えません。森は環境面などから、天皇は日本の歴史を遡れば説明できたとしても、ではそれが東京の中心にある必要はあるのかという説明にはなりません。ただ、そういった都市が世界に一つくらいあったほうが面白いということは言えます。もう一つ素朴なことですがそのような皇居や桜田堀という場所に人が滞在できる場所がほとんどないことも問題だと思っていました。これもある意味では、断絶の要因です。そしてこれは多くの人々や建築学生が、皇居を意識できない要因の一つであるとも思いました。

一方で、現在の皇居には根本的な齟齬があるということも分かりました。皇居には現在天皇が住んでいますが、以前は江戸城ですので将軍が住んでいました。なので現在ある堀も石垣も将軍の住処であるがゆえ、つくられたものでした。別の言い方をすれば将軍の権力の象徴です。天皇にあるのは権力ではなく権威ですので本来ならば堀も石垣も必要ないはずです。それは以前住んでいた京都御所との違いとも言えます。ですので如何にこの齟齬を解消するかということもありました。

皇居に対する問題意識を簡潔にまとめると以下のようになるかと思います。

皇居と周辺の関係には深い断絶と齟齬がある。断絶は、稀有な場所もしくは都市構造である為に維持すべきである。けれども同時に、その断絶こそが皇居に対する人々の関心の妨げでもあり、それは問題である。この一見矛盾した問いを解くこと。齟齬に関しては解消されるべきだが、それが矛盾した問いの答えにもなりうること。

当時、ここまでは言葉による整理ができていなかったように思われますが、このようなことを考えていました。以上のことを踏まえ、最終的には三つの回答を考えました。プレゼンボードから言葉を引用します。

玉川上水の再生

桜田堀の水田化

・賑わい空間とアジールの可視化

 順を追って説明します。

まず玉川上水の再生ですが、皇居が抱える問題として最も一般的に言われることは、堀に発生した大量のアオコです。本来、皇居(江戸城)の堀には玉川上水から流れ込み東京湾へ、という自然な水循環があり、水が透き通っていたと言われていますが、1965年に淀橋浄水場が廃止されたことを皮切りに玉川上水が都市部では機能を失いました。それを再生するというのが一つの提案でした。最近では堀の水質改善の為に、商業ビルの地下に浄水施設を設置し対策が進んでいます。それにより、水質改善が為されることはいいですが、それは皇居と浄水施設という小さく閉じた関係の中で起こることです。冒頭でも書いたように、皇居は中心であり可能性を秘めた場所であるのならば、少なくとも堀に関しては周辺との接続を回復し、再び東京の水循環も回復されるべきだと思いました。

次に堀の水田化です。玉川上水の再生が周辺との関係の回復だとすると、水田化は齟齬の解消にあたります。詳細は省きますが、天皇の歴史において、稲穂が大切であることが分かります。堀は将軍の象徴でしたが、天皇の象徴は稲穂だと思います。ですので、皇居の堀に稲穂が実るというのは相応しい風景だと考えました。また、皇居内には小さな田園があり、それを可視化することもできます。可視化されるというのは、これも関係性の回復とも言えるかもしれません。一方で皇居と周辺の関係をハレとケの関係に擬えるならば、稲作はケ(日常)の象徴なので、ハレ(祝祭空間)としての皇居をより対比的に意識することもできると思います。これが先ほど書いた、矛盾した問いの答えにもなりうる、という部分にあたります。

三つ目が、賑わい空間とアジールの可視化です。皇居には人が滞在できる場所がないと書きました。この要因の一つは余りに広すぎて人間的なスケールではないということだと思います。皇居前広場の南側にベンチがありますが、そこに座っても全く落ち着きませんでした。むしろランナー達のように水分補給をし、靴紐を結び直し、すぐにその場を立ち去りたくなります。そしてこれこそが唯一建築的な問題だと思いました。桜田堀は全長が1.5km、平均幅が70mほどあり、面積は約一万㎡です。まずはこの広大な敷地に三つの補助線を引くことからはじめました。一つ目は国会議事堂から東京駅方向へ伸びる道路を平行にずらした軸です。二つ目は皇居内で最も神聖な場所といわれる宮中三殿へと向かう軸です。三つ目は皇居を中心に引かれた半径約1kmの曲線です。それぞれ、近代の軸、神話の軸、アジールの円と名前をつけました。それを道路と同じレベルの橋へと置き換え、二つの軸線はアジールの円をなぞった橋で分断されるような形にしました。建物は二つの軸線が交差する部分に配置し、三階部分は橋を避けるように四つのボリュームに分割されています。建物周辺には広場や休憩場があり部分的には橋の下になる場所もあります。また水路を引き込むなどをし、広大な桜田堀の一角に人間的なスケールをつくり賑わい空間とよびました。アジールというのは断絶された森、普通に言えば皇居のことです。人々が訪れ、賑わうというのは一方では、皇居の世俗化または矮小化と隣り合わせです。断絶あってのアジールですし、それは維持すべきだと考えたので、二つの橋は円弧型の橋によって分断され、その橋も周辺と皇居をつなぐのではなく、周辺から周辺へ、というかたちとしました。さらに円弧型の橋から突き出す六つの構造体によって皇居というアジールを可視化できると考えました。

以上、当時考えていたことをまとめました。最後にこの課題を今の自分から見てどうかを書いて終わりにします。

当時よりも少し客観的にみることができたので分かったことですが、この課題のピークは敷地に皇居を選んだところです。タイトルは「忘却の森を可視化する」ではなく「皇居発見」にするべきかもしれません。 半分冗談ですがそう思います。皇居に目を付け、リサーチをし、問題を見つける。そこまではいいですが、それに対する回答が、つまり最も重要な部分が弱かったと思います。玉川上水の再生、水田化、堀を埋め立てて広場にするという三つの角度から同じような回答を反復しているのもありますが、そもそも絵がありません。玉川上水が再生すると変わりうる東京の風景、皇居の歪な風景と稲穂がどう見えるのか、アイレベルから見た広場や橋に人が集まっている様子。少なくともこの三つは必要でした。当時もそれは描こうとはしていた気がしますが、力不足でした。それがないので抽象的な話だけをされた印象が拭えません。もしくはある時点でどこかに焦点を合わせ、きちんと「設計」するべきでした。例えば玉川上水の再生ならば、淀橋浄水場の跡地には都庁が現在あるので、都庁を解体し浄水施設を設計するなどは十分にあり得たと思います。正直この課題では、建物の外観や用途、内部空間には興味がありませんでした。実は銭湯を計画したのですが、ほとんど誰にも言っていません。(笑) ですので、設計という面から見ると何もしていないと言えるかもしれません。プレゼンの際も、建物の話は早々に切り上げ、玉川上水や稲穂、橋について滔々と語っていたような気がします。自分で書きながら絶望的な気分になってきましたが、卒業設計中は毎日楽しかったことも事実です。今までは意識したこともなかった皇居が徐々に自分の中で分かってくる、けれどもすぐに別の分かっていないことに気が付き、また調べる。どこまで行っても決して完全には分からないわけですが、そのような過程を楽しんでいました。それができただけでもこの卒業設計の個人的意味はあったかもしれません。

なにか興味の対象を見つけ、それについて調べ、思考し妄想し楽しむ。このような態度はこの卒業設計から受け取らなくてはならないと、これを書いて思いました。