軽薄な狂気

鋼鉄のコンセプト。クラフトワークのことをymoの三人はそう呼んでいた。テクノカット、演奏スタイル、音楽性、すべてが鋼鉄。ドイツ、テクノロジー、全体主義。そんな鋼鉄の音楽に対して、日本ではなにができるか、日本にはなにがあるか。パリでの公演の後、1人の女の子が彼らにこう言った。

「すごくキュートだね」

それを聞いた細野晴臣は、そうか日本はキュートな国なのか。歴史を忘却し、頭はくるくるぱー。意味とかないし、なんか気持ちいい。東京はビョーキの街。それをアイロニカルに発信すればいいのだ。そう気付かされた。

民族衣裳は、本当はスキーウェアーだった。イエローマジックオーケストラという名前も、ほとんど思いつきだった。ガスマクスを付けて、これが無いと東京では、ビョーキになるよ。と世界に発信した。

そもそも日本はそんな国だ。嘘とインチキで塗り固めた国。日本にはなにがあるか。なにもない。けれど意味のないモノが飽和して、そんなことを考えることすらできない。それが軽薄でカワイイのだ。素晴らしいコンセプトだった。全てがゲーム感覚。地に足が着いてないし、腰は砕けてる。けれど、頭だけはハイになってる。ナチュラルハイ。

軽薄なかわいさ。確かにymoをそう語るのは悪くないないかもしれない。けれど、個人レベルで見れば彼らに軽薄と言える人がいるだろうか。少なくとも僕はそう思わない。高橋幸宏のアルバム、「音楽殺人」のグルーブ感。坂本龍一の「千のナイフ」、もしくは 「riot in lagos」細野晴臣の「泰安洋行」のドラック感。彼らの音楽群には豊穣な背景がある。問題は背景だ。今の音楽にはそれが無くなってきている。思いつき、即興、フリースタイル。それはあってもいい。けれどもそれだけでは困る。ルーツのある音楽を求めている。とか言いつつ、自分にはなにかしらの専門分野で誰よりも語れるかと言ったらそんなものは1つもないので、言葉が自分に突き刺さる。

本当は軽薄じゃない。狂気。そんな男が3人集まって、軽薄なフリをする。浅田彰の「シラけつつノル」という言葉をこのymoのはじめのコンセプトで理解している。はじめの‥‥そう、アルバム「BGM」では、そんな軽薄を装った彼らに付いてきた人達を突き放した。柄谷行人の「命がけの飛躍」という言葉を、このアルバムで理解している。さすがにそれは無理があるが、僕はいい音楽を聴けば、その時代や社会、そして世界を少しづつ理解する、もしくは諦めることができると本気で思っている。たとえそれが出来なくとも、いい音楽に出会えていれば、人生はなかなか楽しい。けれどもそれが案外難しいことだと最近分かってきた。