三島由紀夫のように生きたい!!

三島由紀夫のように、劇的に命を燃やす人生を送ってみたかった。消費社会が成熟しきった国の若者たちに目的はない。絶望的な希望ならあるかもしれないが、目的はない。そんな無目的さに耐えられないから、三島由紀夫のように生きたかったと思う。彼の事を知らない人もそう思っている。そう思ってないと思ってる人は、消費社会に麻痺しているだけで、そこから目を覚ましたらそう思う。そんなことないだろう。彼のように国の為に、祖先の為に生きなくとも、家族の為に生きたり、彼女の為に生きたり、休日の為に生きたり、色々あるじゃないか。そうかもしれない。けれどもそう思っている人が腑に落ちていない事を知っている。もっと大きな、普遍的な目的があった方がいいのかと時々考えるが、答えは常に先送りにしている。こうも思う。そもそも、なにか目的がなくてはダメなのか。人類が滅びたって宇宙にとってはなにも困らないのだから。確かに、でもこれもつらい。何かで悩んだ時に、誰かにこう言われる。

「世の中にはもっと大変な人たくさんいるよ」

これと同じつらさがある。そんなこと知るかよ。俺がつらいからつらいんだ。その通り。

1 三島由紀夫のように生きる

2 暫定的な目的のために生きる

3 そもそも目的などないと考えて生きる

こんなことをタイの友人に言ったらこう言われるだろう。

「そんなこと考えてたら、頭バカなるよ!」

4 なにも考えない

1をするには人を殺す覚悟がないといけない。自分にはそれがないし、そんな感情が湧き出そうにない。いやそんな覚悟はなくてもできるかもしれない。祖先の為に生きることは、毎年の墓参りに行って、手を合わせるだけでいいかもしれない。けれども、会ったことのない人達の為に生きるなんてなかなか難しそう。

2は良さそうな気もする。彼女の為、友人の為、自分の為、子供の為、親の為、自分の為。別に人でなくてもいい。でもそれはあくまで暫定的な目的であって、そう自分に言い聞かせることで無理やり納得し、本当の問いから逃げているような気もするから腑に落ちない。

3も良さそう。単に自分の好奇心だったり、偶然に身を任せて生きていけそう。それどもすこし問題がある。生きることが投げやりになってしまいそう。別にそれでもいいかも知れないが、これも少し腑に落ちない。

4はそれが出来る人はすればいいけど、出来ない人には一時的な気分転換にしかならない。

さて、どうするか。普通に考えたら、2か3のどちらかだし、又はそれらを交互にやったりして、なんとなく生きていくのが普通だろう。それども、ここでは人を殺す勇気もないけれど、三島由紀夫のように生きる1のルートを考えたい。

と、3日前くらいに書き始めたけれど、昨日会った女性が、すきになってしまった。だからしばらくはその人の言うことをハイハイ聞いてみる。