東京、その可能性の中心 Ⅰ

東京を論じた本は一体いくつあるだろうか。すぐに思いつくのは、ロランバルトの「表徴の帝国」だろう。東京論の8割にこの本の言葉が引用されると言っても大袈裟ではない。「東京の中心は無である」これほど解釈の可能性がある言葉はなかなか無いだろう。まず、東京の中心はどこか。ということになるが、これはほとんど議論の余地はないだろう。なぜなら、地図を見れば簡単に分かってしまうからだ。都庁、ちがう、総理官邸、ちがう。皇居である。東京には恣意的にセットされた森が四つある。明治神宮新宿御苑赤坂御用地、そして皇居。面積的にもそうだが、文脈の複雑さにおいて皇居は他を圧倒する。そしてなによりも、江戸城跡地であり、現在は今上天皇が住んでいる。それだけでも十分、中心たる理由になるが、交通網からみても東京の都市計画は明らかに皇居を中心としている。主要な道路は皇居に向かうか、もしくは皇居を中心とした円形を描く。鉄道はあまりに複雑なので一見すると、なんの秩序も持っていないように見えるが、東京には「皇居」と名の付く駅がなく、皇居の下以外にはびっしりと鉄道網が引かれている。それはほとんど狂気の沙汰である。なぜ皇居前駅とか、皇居横駅とか無いのだろうか。政治的な理由を除けばこうなるだろう。中心点には上も下も、横もくそもないのである。とはいえ、一般参賀の時に皇族が立って見る方向は、ほとんど真東なので、東京駅が前になるのような気もするが、皇居のなかで最も神聖な場所「宮中三殿」は全くべつの方角を向いている。さて、これくらいで東京の中心は皇居である根拠は十分だろう。問題はここからであり、ロランバルトの言葉で言う「無」である。無、とはなにか。鈴木大拙によると‥‥読んだことないのだが、おそらく、全ての始まりであり、終わり。いや、始まりも終わりもない何か‥‥。

さて、無とは決してなにも無いことではない。全ての源である。田畑を潤した雨。その雨をつくった雲。その雲をつくった水蒸気。水蒸気をつくった海。海に流れ込んだ川。その川のもっとも上流、その最初の一滴。それが無である。つまり最初の一滴は、田畑そのものでもあるというわけだ。

この方向から突破するのは今の自分にはできそうにない。なので別の角度から、いや今この状況から極めて具体的に説明しよう。

今は電車に乗っている。満員電車のなかで座席の前に立っている。横にいる男は田舎者なのか、さっき独り言で

「だから東京はきらいなんだよ」

と言っていて、それからずっとイライラしている様子だ。肘をつっぱり、自分そのものが満員電車に加担していることを完全に忘れ、「1:その他」という構造で世界を捉えている。この田舎者に、東京を好きになってもらうにはどうしたらよいか。僕ならこう伝えるだろう。

「想像してみてください。今あなたの前には女性が座っていますよね。そしてその女性の口はあなたの股間の高さと丁度同じですよ。つまり電車というのは、とても卑猥な空間なんです。たのしいでしょ。」

男性は突っ張っていた肘と口を緩めた。