神は突然やってくるIII

さて、バイトの休憩中に今回は書こうと思う。クラブフェスなので控え室でもガンガン音楽が聞こえてくる。このマッチョイズムにドライブして書いて行きたい。彼女オススメの餃子が美味しい居酒屋に移動し、餃子20枚とハイボールを注文した。正直、ハイボールも餃子もなんだってよかったのだが…食には本当に興味がない。同じ材料、同じ工程でチャーハンを自分で作ってよく食べているが、もはや美味しいとかを超えてくる。さて、この文章を書いていて彼女との会話を時系列で進めて行くことがいかに困難であるか分かってきた。僕自身がそうなのだが、彼女も1つの事を喋り大体話が終わると次の話題にシフトしてそしてまた次の会話へ‥‥という、いわゆる女性的な会話よりも。1つの事を話すと、その中のキーワードから突如として全く別様の世界にジャンプし、そしてしばらくすると思いもよらぬ場所に行き着いく。かと思うと、実はそこはさっきの世界を別の視点で見ていた。という会話の仕方をするので困難なのである。飛躍と断絶の繰り返しが好きなのである。途中でこの話もして、男性ホルモン多いのでは?と指摘したら多少気にしているようだった。さて、そういう訳で、多少強引にいくつかのトピックに分けて書いていく。

 

1.jazzの誕生 文化はダーティな場から

2.親と子について 30代は阿呆

3.タイ語 アジアの中の日本

4.理系文系の二項対立を超えて

5.自分の存在の違和感 過剰接続の時代

 

今思いた順に適当に書いてみたのでとりあえずこの順番で進めて行こうと思う。これから書くことは必ずしも彼女と会話した事だけではないく、その後自分がした妄想なども含まれる。もしくは彼女と会話したこと、そもそも逢ったことすら妄想かもしれない…

 

1.jazzの誕生 文化はダーティな場から

これは前回少し書いたが、jazzの始まりは黒人奴隷の過酷な労働力搾取である。人類史上最も悲惨とも言えるこの事態から生まれた音楽であることは忘れてはならない。時として文化はダーティな所から生まれるのだ。だが今日、そんな場所は急速に無くなりつつある。大学は、7時になったから帰りましょう。職場では、飲み会は行きません、主義の若者。(自分も場合によってはそうだが) 東京の街にも闇は消えつつある。すべてが白熱電灯で均質に照らされていく。三島由紀夫は何かの本で、日本の将来を「無機質な、からっぽな、なんの抜け目のない、ある経済大国が極東の一角に生まれるだろう」(本当はもっと長かったような気がする)と言っているが本当にその通りとなった。彼女も「大学の友達と話しても楽しくない、芸能人や軽い下ネタを話すだけ」と嘆いていた。数年前までネットは新しい文化を生み出すダーティな場所だと注目されていたかもしれないが、今では欲望と快楽、そして「インスタ映え」に侵食された。世界はこのままインスタ化していくのだろうか。ところで彼女はjazzギターをやっていて、普段からjazzを聴くらしい。彼女に会う前に喫茶店で読んだjazz本も、彼女も、言っていることは同じだった。つまりはこうだ、マイルスデイビスは神だ!そう言うわけで、時々マイルスデイビスを聴いている。

 

2.親と子について 30代は阿呆

彼女は福岡出身だが、両親共に読書家で、家に図書室があったそうだ。そういった環境で育つことに今は多少の憧れはある。僕の実家には本棚すらなかった気がする。その代わり大きな庭や、文字通りの闇もあった(単に田舎だから)。唐突だが、社会学ではよく25年で1つのエポックが変わるという話がよくある。1945 1970 1995 2020 確かにこう見ると妙に納得できる。そして僕らはこの話をした後に、25歳くらい離れている人達の言っていることは分かるが12.3歳上の人達は何言ってるのか分からないし、なんだか阿保っぽい。という結論を出した。「やっぱ、30代は阿保ですよ。あいつら何も考えてないし、なんか話したら、ゆとりだねー冷めてるねー悟りだねー若いねーしか言わない。阿保すぎる」こんな感じで盛り上がった。さて、さすがにこれは居酒屋のテンションで言っているので乱暴な結論かも知れないし、例外は沢山あるのだが、いわゆる、世代間格差的なものの一定の回帰周期はあると思う。そして、それらがあるから社会は反復している様に見えても実は、なんとなくよい方向に向かうのだろう。つまり若い人、もしくは様々なマイノリティは、社会の上位に胡座をかくオヤジ達を乗り越えて行く態度が無くてはならない。その為には、上の世代より勉強し、世界をより深く、より複雑に体験するしかない。親の話をしたが、この世代間の周期を決定しているのは母親の出産年齢がおおよそ25歳だからなのではないか。(と思ったが調べたら30歳くらいらしい…) 親と子については、自分が子でしかないので難しい。親でもあり、子でもある。そんな状態がいつか来たらまた考えたいと思う。

 

3.タイ語と東南アジアと日本

彼女とネットで知り合った時に、大学で何してるの?外国語やってます……タイ語とか?(笑)と冗談で言ったら、本当に彼女はタイ語をやっていて驚いた。なぜタイ語とか?と聞いたかと言うと、半分はウケ狙いだが、もう半分は、その時プラープダーユンというタイの有名作家の本をAmazonで買っていたからだった。この本については読み終えたら書こうと思う。そんなわけで彼女もタイ語なんて言うマイナーな分野の話ができるのか、と嬉しそうだったが。こっちは冗談半分なので、タイ語ってやばいよね!とか言って誤魔化していた。でも実際会ってタイ語の話をしてみると、本当にやばかった。タイ語には句読点とかも無いし、そのかわりなんとなくスペースを適当に開けるらしい。そしてタイ語を見てみたが、単に形があまりに似通っていて、意味とか以前に形を認識することすら困難だった。本当にやばい言語だ。日本語なんてまだまだ甘っちょろいのではないか。彼女はタイ語をやっているだけあって、東南アジアが好きらしい。将来は地元の桃をタイに売りたいとか、妙に具体的な話もしていた。そして、例のごとく、僕たちはすぐに会話をメタ化していってしまった。話を高次元化するのはいつも癖の様にやってしまっていて、彼女と会った時もそうだったのだが、最近はあまりよくないことだとも考えるようになった。メタ化するのは実は簡単で、最終的に神について語ればいいからだ。ただ問題はそれが楽しくてやめられないことなのだが。そして会話はアジアの中で日本はどうしたらのか、という方向へと流れていった。僕は、「日本はアジアのリーダーだが、いまそう言ったメンタルでグローバルに活動している人は少ないので、この国は終わってる」と言った。彼女は、アジアのリーダーという部分に違和感を覚えて何かを言いたそうだったが、うまく言葉にできていなかった。彼女はそのかわりこう言った。「日本は単一民族で歴史も古くて一度も滅んでないとか言ってるけど、戦争負けてんじゃん!」なぜが興奮していた。彼女が分かりやすく左側に座ったので、仕方なく右側に座った。そしてそれに対して、でもさ、じゃあなんで東京のど真ん中に森があるんだ。なんでさっき「いただきます」とかいう呪文言ってたんだ。なんで11月23日は休日なんだ。などど怒涛の様に言ったら彼女は笑っていた。こういう上品なジョークが分かる人が好きだ。ちなみに彼女には、勃起不全の彼氏がいるので。彼女と付き合うとかは本当に考えていない。セックスはしたいけども。ちなみに彼女は乳首が本当に感じやすいらしい。さて、このあたりの会話はほとんど覚えてないのだが、今1つ思い出した。小林秀雄が「人間の建設」の中で、特攻に行く青年の話をしていて、その青年を可哀想とか思うのではなく、青年そのものになって考えなくてはダメだという様なことを言っていて、青年はまさにその瞬間、小我とかを超えてもっと大きな枠組みで思考をしている、そしてその思考は西洋人には理解できないことで、それこそが日本的思考であり、また最大の可能性だと言っていた。こう書くと随分と日本主義的で右翼っぽいが、これを右翼的とか思っている時点でダメな気もする。右翼、左翼。文系、理系。こういった分かりやすい二項対立に依存すると、どちらかに盲目的になってしまうからだ。小林秀雄はその次に宗教についても言っていて、よく日本には宗教がないとか言うが、あれは間違っている。そういう人は宗教というものがそもそも分かってませんね、と言っている。確かに日本人は宗教について考えないし、死者についても考えない。いまここだけが世界だと思っている人が多い。日本には毎年三万人を超える自殺者がいる。よって日本は死者の国である。つまり亡霊の国でもある。そもそも「考える」というのは、いまここを「理解」するために、いまここではないことを「考える」ものだと思っている。このまま日本人が考えることをやめてしまったら、この国は永遠に亡霊達に呪われたままになってしまう。

 

4.理系文系の二項対立を超えて

彼女は文系の学生で、僕は理系学生だったので自然とこの話になった。理系と文系の違いを究極的に言えばこうなる。文系は朝食の目玉焼きを美味しいと思っている「わたし」について考え、理系は目玉焼き「そのもの」を研究する。つまり、真理が自分の中にあるのが文系で、外にあるのが理系だ。そして、それらを超えて思考するのが知識人の態度というものだ。という話をした。彼女はそれらを超えて思考することの重要性は分かるが、どうしたらできるのか分からない。という様なことを言っていた。当然僕にも分からないのだが、そのキッカケになるものを最近見つけてしまった。それは「SFを読む!」という大発見である。別に大発見でもないのだが、なぜこう思ったかというと、SFは、サイエンスをフィクションする。つまり科学を空想する。とどのつまり、「理系を文学する」ジャンルだからだ。今書きながら、「理系を文学したら、それは文学なので、文系では」という突っ込みが聞こえてきて、それがあまりにクリティカルなので沈黙してしまいそうになる。とはいえ、これからしばらくはSFを読んでいこうと思っているので、いつかはこの突っ込みにも返せるようになるだろう。もしくは忘却するだろう。とにかく、理系脳の人は「わたし」について考え、文系脳のひとは「そのもの」について考えなくてはならない。もしくは、そんな二項対立を超える圧倒的な神になるしかないのである。

 

5.自分の存在の違和感 過剰接続の時代

 これで最後である。人間はアーキテクチャに制限もしくは誘導され、コントロールされ続けている。スマフォで文章を書くというのはものすごいストレスである。画面が小さいと文章を遡る為にかなりのスクロールを要求されるし、長時間のフリック入力は指への身体的負荷が極めて高いので、長い文章を書くのは不可能であることが分かった。このブログ程度でもなかなかしんどい。つまりスマフォの時代は散文の終わりなのだと痛感した。これからの時代は、140文字で言いたいことをまとめ、写真をアップして「いいね」を集める能力こそが必要なのかもしれない。さて本題、彼女が言っていたことで一番記憶に残っているのはこの言葉かもしれない「たまに、化粧をしている時に思うんですけど、あれ?なんで私この人に化粧しているの?って思うんです。自分に化粧している時に、自分じゃない誰かに化粧している感覚になります」いわゆる自分の存在への違和感である。彼女曰く、周りの女友達もそういった感覚になるらしいので若い女性一般に言える話なのかもしれない。これは極めて若い、そして哲学的問いなのでそこから色々と話した気がするがほとんど記憶にない。最終的には、それは歳を重ねたら考えなくなるようはことなので(40代とかで自分の存在に違和感あるとか言ってたらかなり痛い)大切にした方がいいのでは、とか言った気がする。僕は今年23になるが、すでに自分の存在にあまり違和感などない。これは単に馬鹿になっているだけかもしれないが。さて、ここまで彼女と縦横無尽に色々と話していて、彼女と決定的に違う意見や、価値観はあまり無かったのだが、一つだけ違う部分を見つけた。それは彼女にはおちんちんがついていないということだ。真剣に言うと、他者との付き合い方である。彼女はサークルもいくつかやっていて。様々なコミュニティに所属している。そして、そういったことに結構意識的らしい。対して僕は、特定の友人としか会わないし、snsとかもほとんどやっていない。そしてそういったことに意識的かもしれない。彼女は接続肯定派に対して、僕は切断肯定派である。単にコミュ障かと思われるかもしれないが、初対面などで誰かと話すときには渋谷のパリピー並に、とまでは言えないが普通に話せるのでコミュ障ではない。コミュ障ではないがつまらない人にはコミュ障っぽく振る舞う。そんな接続肯定派の彼女にもっとコミュ障になった方がいいよ、とか言ってしまった様な気もするけども、僕自身も、世界におもしろい人がたくさんいれば、それこそナンパ師にでもなってみたいものである。それとは関係なしに、今やってみたいことはナンパである。それもひどく哲学的な…。そういう訳で、実際に彼女との会話も最後は、どうやって社会と接続し、または切断しうまく生きていけるかみたいな事を話して解散した。彼女はそのあと彼氏が家に来るらしく、そして彼氏の勃起不全を乗り越える為に、バックの中にバイアグラを忍ばせていた……。

また少し時間が空いたら彼女と会って、今回ふわふわして終わった話(ほとんどすべて)の続きをしたいと思う。

 

今回で(おしっこ漏れそうなので)このシリーズを終了する。次はプラープダーユンの本の話か、音楽の話。SFの話。なにかしらを書こうと思う。